月刊 プラザ岡山 Vol.242

月刊 プラザ岡山 Vol.238 page 7/36

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 1100年代の世の中は、飢饉や源平の争乱で、人々は不安におののく…法然が生まれたのはそんな時代でした。父親はどんな人 父親 漆間時国は押領使といって今でいう警察署長のような地位でした。法然(幼名勢至....

 1100年代の世の中は、飢饉や源平の争乱で、人々は不安におののく…法然が生まれたのはそんな時代でした。父親はどんな人 父親 漆間時国は押領使といって今でいう警察署長のような地位でした。法然(幼名勢至丸)が9歳のとき、対立していた預所の夜襲に合い、亡くなってしまいます。そのときの遺言は、「親の仇は打つな。武家は継がず、仏道を歩み、安らぎの世を求めよ」というものでした。当時は、家を継ぎ、親の仇を打つことは武士としての習わしだったのに、法然の父親は先進的で、よほど信仰心が厚かったと言えますね。母親からの影響 また母親 秦氏も、地位、教養の高い女性でした。実弟が菩提寺の住職だったので、法然はいったん菩提寺に身を寄せ、その後15歳で比叡室町時代前期とされる五輪塔もある。「逆木の公孫樹(イチョウ)」。那岐の菩提寺から持ち帰った枝が根付いたものと言われる。気軽にお話をしてくださる住職さん。住職さんに聞きました山へと旅立ちます。法然は母を一生思い続けたそうで、先駆的な女性解放論者でもありました。それまで仏教は女人禁制だったのを解放したのは法然が最初です。法然の教え一言で言えば、官僚的になってしまっている仏教界をくつがえし、お釈迦様が唱えた原点に帰った、ということです。「この世は苦しみに満ちているけれど、どんなに貧しくても、どんな悪人でも、一心に念仏を唱えれば救われる」と説きました。平清盛に命じられ東大寺を焼き討ちした平重衡が、死の直前に法然と面会し、安らかに旅立ったと伝えられています。南無阿弥陀仏の南無とば、「お任せします」「帰依します」という意味。すべてをお任せする気持ち、つまり、自分の無力さに気づくことこそ大事、ということですね。母と誕生寺に行きました。実際に法然上人が生まれた誕生寺に行ってみると、景色もすごくよかったし、法然上人を身近に感じることができました。住職さんからは法然上人にまつわるお話を伺って 、今まで中学校の授業で習って予想していた法然上人よりも、すごく賢くてすごい人だと改めて思いました。これからも法然上人について調べてみたいと思います。岡山学芸館 清秀中学校 1年 関 花梨