月刊 プラザ岡山 Vol.242

月刊 プラザ岡山 Vol.238 page 20/36

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この人に聞くPLAZA INTERVIEW日本古来の楽器「篠笛」に多くの人は馴染が薄い。にもかかわらず朱鷺さんの紡ぐその音色は不思議なまでに懐かしく心地よい。それは人為を超えて地の声にも天の声にも聞こえる。そうして....

この人に聞くPLAZA INTERVIEW日本古来の楽器「篠笛」に多くの人は馴染が薄い。にもかかわらず朱鷺さんの紡ぐその音色は不思議なまでに懐かしく心地よい。それは人為を超えて地の声にも天の声にも聞こえる。そうしてだんだんと遠い昔の人間の素の姿を思い起こさせる点は、壮絶な地の営み「たたら製鉄」の現場と共通しそうだ。今の時代にこそ大切なことかもしれない。篠笛奏者朱鷺たたらさんそれでもせめて楽器をつくる方ならと思って、いろいろ調べると、埼玉にフルートの工場が見つかり、そこに就職することができました。緻密な作業で、もともと目の弱い私は車酔いのように頭がくらくらしましたね。その職場内に、たまたま篠笛のサークルができたんです。荒削りだけど、ちゃんと竹の音がしている。私もやってみると、フルートの経験があっただけに、吹くことはできました。けれど、かつての猛練習の影響で体がすっかりマシン化してしまっているのを感じました。楽器を習得することは、身体を技化していくことでもあるので、その楽器用に自らが変化していくんです。だから、本格的に篠笛を吹くためには、一回自分を壊してつくり直すことが必要でした。 まずはクラシックフルートにおける評価基準を、普遍的なものと思い込んでいたので、それを見直す作業をしました。基準は外に置かず、自らの内で吟味し直すこと。フルートをはじめ、居合道やそのほ科に進学し、芸大を目指していたんですが、先生があまりにもスパルタなせいもあって、だんだんフルートの道に疑問を持ち始めたんです。そうなると、西洋の楽器全般に対して、どうも自分はしっくりこないように思えてきました。自分からとても遠いところのもののような気がして、『西洋のクラシックは知らん人のつくったもんやし、言葉も違うし、わかるわけないわ』と。それ以来、演奏家は自然の感覚でわかる自国の曲を演奏するのが一番合う、というのが私の考えです。厳しすぎる先生のおかげで早くに壁にぶつかり、現在につながったことには感謝しています。芸大受験も演奏家も諦めて、普通の大学に入学し、居合道のクラブに入りました。学生は演武が中心だったので、母は『なんでフルートが刀になってしまったの…』と嘆いていましたね。 しかし、今思えばそんな母の厳しさが、『もう、あかん』と私が折れそうになったとき、『折れたら終わりや!』と踏ん張る気持ちをつくってくれたんだと思います。父は、世間の基準とは違った感覚のおもしろい人で、両方に支えられました」篠笛との出合いと再会││ 篠笛との出合いは。 「京都のお寺で篠笛のコンサートがあり、初めて聴いて、『なんて素敵なんやろ! 着物姿もカッコええなあ…』 と。 当時は女子の就職先が凍りついていた時代でした。私は演奏家の道に憧れはまだあったものの、長らく楽器から離れていたので、もう戻れないなと思っていました。楽器って、3日触れずにいただけでも感覚を取り戻すのが大変なくらいですから。る人もいるし、頬が削げ落ち、煤で黒ずんだ顔はまさに異形の民と言われた昔を思わせました。かつて超技能集団として山を渡り歩いていたということなど、当時、根無し草で不安定だった自分とリンクするものもありました。激しく心を揺さぶられ、その晩は涙があとからあとから溢れました。その後も1年ほどは、たたらの『た』の字を聞くだけで涙が出る状態でしたね」││ 京都での子ども時代のことから伺っていきたいと思います。 「祖父も祖母も、いわゆるモダンボーイ、モダンガールで、日曜の朝にはクラシック音楽が流れているような家庭でした。母もエレクトーンの先生をしていて、私は小学校2年からピアノを習い始めました。中学になると、母に『女の子らしくていいんじゃない?』とフルートを勧められました。プロの演奏家になるつもりで高校は音楽西洋楽器フルートとの決別││ 「たたらさん」とは、いいお名前(芸名)ですね。 「ある晩、天狗にさらわれる夢を見たんです。つれて行かれた岩山で見たのは、天狗が製鉄をする光景でした。神隠しから解放され村に戻り、小屋へ閉じ込められたとき、私の腰のひと鞘の刀が村人の目にとまりました。私はたたら製鉄を伝授した後、また村人に監禁され、そこに弟が現れ助けてくれる――この夢で見たものはなんだったんだろうと調べてみて、そのとき初めてたたら製鉄というものを知りました。私の生まれ育った京都では全く聞いたこともなかったですね。 奥出雲で年に1回たたらがあると知り、無理をお願いして見せていただきました。極寒の奥出雲の夜、地の底からたたらを吹く風の音が、大きな獣の息吹のようでした。たたら衆は炎で肌や目を傷めてい